特集/コラム

【人物登場】2010-09-20

”第2の人生”は水彩画で 緑川 尚夫さん(退職教員淡彩画家)

 54歳から淡彩画を始め、定年退職後は本格化して、毎年1回の個展も回を重ねて、今秋で23回目。定年後の「第2の人生」でも、ひとつの典型例を示している。

”第2の人生”は水彩画で 緑川 尚夫さん(退職教員淡彩画家)

 画風は、淡々としている。基本的には、自然風景を描いた水彩画だが、鉛筆で薄く下絵を描き、水彩絵の具で8割ほど仕上げ、「せっかく遠いところを来たのだから」と、もう一枚、別の風景を同様に描いて帰る。8割ほど出来ておれば、最終仕上げは、帰宅してからでも十分に可能なのだ。
 “鉛筆淡彩画”とでもいうべき画法だろうが、本人は単純に「水彩画」と割り切っている。
 「せっかく来たのだから」というのは、講師を立てた、グループでの「写生ツアー」でのこと。自身も、いくつかの場面で講師を依頼されることもあるが、「キチンと絵を勉強したわけでもないのだから」と固辞している。個展を開くとき、ギャラリーからは画歴の提出を求められるのだが、こちらも「誇れる画歴も、受賞歴もない」として、同様に固辞。
 「小学校時代に好きだった」と、“50の手習い”よろしく、絵を始めたころは建物が好きで、「出勤前に1枚、昼休みに1枚、帰りに1枚」といった調子で描いてきた。だから、「毎日が日曜日」になってからは、海外へも出かけ、とりわけヨーロッパの街並みを好んで題材としてきた。
 それが、いつしか日本の山村風景へと関心が移り、さらに「だんだんと体力が落ちてくれば、室内で描ける静物画を」と、いま移行を準備中。

 絵を描こうと思い立った54歳の頃は、目黒の教育研究所にいた。美術の指導主事もいたので、「いたずら書きを持っていった」が、専門家はなかなか教えないものと悟り、「アトリエ」誌のスケッチ本を何冊か買ってきて2年ほど模写し、遠近法などもこれで学んだ。
 スケッチを描き始め、郊外の居住地から都心部へと「恐る恐る外出するようになって発見した」ことがいくつかある。まず、「東京の人は覗きにこない。来るのは外国人」。そして、「公園では外国人と大きい女の子。子供は来ない」と。
 極めつけは、お茶の水のニコライ堂での経験。何年か前までは子供が「どこから来たの、プロのようには見えないけど・・」とか、“ヘラズ口”を叩いて行ったものだが、ニコライ堂の改装後に描きにいくと、「見事に誰も来ない」。教師出身らしく、“子供の変化”を通じて、時代の空気を感じ取っている。
 青春時代は「旧制中学4年で繰り上げ卒業して9月に海軍兵学校に入り、翌年8月に終戦」。戦後は“代用教員”でしのぎ、「海兵に送り出した先生も責任を感じてか、帰ってこいという」ことで、新制高校3年に編入し、“新制1期生”として卒業。その後も2年ほどは、図書館法にいう“司書補”として働き、苦労を重ねて進学した。
 だが、そんな苦労は顔には出さず、ニコニコと穏やかな表情で、「平和なればこその絵」を楽しむ。

 1928年(昭和3年)福島県生まれ、「戦争に引っかかって」紆余曲折の青春時代を過ごし、「通常より、6年遅れ」で東京教育大(現筑波大学)に進み、教育哲学を学ぶ。文京区で現場の中学社会科教師12年、教育委員会や教育研究所など教育行政に16年、世田谷区で校長として学校経営4年で定年退職。
 水彩画は事実上、独学に近く、「校長最後の年に、初めての個展」を開き、今秋で23回目。9月22日(水)まで、表参道の「ギャラリー コンセプト21」(港区北青山3丁目)で開催の第23回個展には、かっての教え子や元同僚たちが多数訪ねてきて、教師冥利の至福のときを過ごした。
 「水彩画以外の趣味は書道」で、「個展の案内や看板などは自分で」。モットーは「特にない」が、かってフランスで経験した「人間を大事にする文化」の違いは、今も脳裏に焼きついている。

特集/コラム一覧