特集/コラム

【エリア特集】2007-01-30

リスボン紀行

ヨーロッパでは一番南西に位置し常春と聞いていたが、冬のリスボンは以外に寒かった。晴れればオーバーはいらないが、曇りになって風が吹いたり雨でも降れば10度以下になる。だが、いったん晴れ間が見えると冬とは思えないような真っ青な空が広がった。

リスボン紀行

首都であるにもかかわらずこじんまりした地方都市といった感じで、簡単に把握してしまうことが出来る。作家の吉田修一氏は、リスボンが舞台の「7月24日通り」という恋愛小説を現地に行ったことのないまま地図とイマジネーションを頼りに書き上げたそうだが、それが可能なほど小さな街だ。ヨーロッパの有名都市を回ってしまって、どこかのんびりと素朴な雰囲気の漂う街で2,3日過ごしたいと思っている人にはいいところだ。人々は穏やかで洗練はされていないが、数百年前は大国としてポルトガルの名を世界に馳せた風格が街に残っていて、海を目の前に大航海のロマンを夢見た頃が偲ばれる。8世紀頃にはアラブ人が支配していたせいもあって異国情緒も豊かだ。

まず、一番古い街並みのアルファマ(Alfama)地区に行ってみる。28番の路面電車に飛び乗った。この街の路面電車特に28番線は、1度は乗って欲しい乗物だ。1車線しかなく離合がやっとの細い道を後ろに車を従え、丘から丘のアップダウンをスローモーションのジェットコースターのように走りスリル満点。どの運転手も、丘の斜面を切り替えのレバーを素早く小刻みに操りながら、色とりどりの洗濯物が風になびいている建物の間を難なく走っていく。

サオ・ジョージの城(Castelo de São Jorge)がある向かい側の丘、左右、上下に揺れる電車の中で過ごすこと15分、ミラドーロ(展望台の意)・サンタ・ルチア(Miradouro Santa Luzia)の展望台前で降りた。右手の坂を登れば城の入口だ。

ちょっと寄り道してもう少し先の、ガイドブックにも出ていたグラサ教会(Igreja da Graça)の前に出る。ここからは、リスボンの街並みが一目で見渡せ、右側にはサオ・ジョージの城壁、正面には反対側に聳える丘がいくつか見える。中には新宿のような高層ビルも建っていて、新旧が一挙に視界に入ってくるのがおもしろい。

いよいよ、サオ・ジョージの城へ昇る。いくつかの石の塔とそれらの塔をつなぐ万里の長城のような天井のない石の高台の廊下が主で、観光客は塔に登って景色を仰ぐのである。いわゆる中世のおとぎばなしに登場するようなファンシーなお城ではないが、ここから眼前に広がる湾と向こうに見える大西洋を見下ろせば、天下を掌握したという気分に酔わせる雰囲気がある。これはパリのモンマルトルの丘では味わえない。

2日目はまず近辺を散策することにした。何よりも驚くのは坂道もメインストリートの通りも歩道だけでなく自動車道も石畳であることだ。ところどころに彫刻のほどこしてある苔のむした馬の水飲み場が残っている。その一方ではあちらこちらで、土曜日も休まず土地再開発工事が行われている。天気雨の中、道が縦横に通っているバクサ(Baixa)をブティックのテントの軒先をつたって湾の方へ進む。沿岸にはライトアップで有名なプラサ・ド・コメルシオ(Praça do Comércio)の石畳の広場がある。1755年の大地震の後広場となったが、以前は王宮だったそうだ。またここは、1908年に王様と王子たちが殺害され君主制が終わりを告げた舞台でもある。晴れた空に、石造りの薄いグレーの建物がよく映えている。

午後は、世界遺産に指定されたシントラ(Sintra)の町とイベリア半島の西、そしてヨーロッパ大陸のもっとも西に位置する海岸を巡るガイド付き半日コースに参加した。

まず郊外に通じる高速に乗って中心地を離れたが、途中に石で出来たローマにあるような水道橋(Aqueduto das Águas Livres)が見える。18世紀前半に建設された水道で、渓谷の上を走っている部分だ。35のアーチを有しており高さは66メートルにもおよぶとのこと。

町はまるでドイツのローテンブルクのような古い街並みを思い出させる。切り立った丘の斜面に昔ながらの石造りの家が建てられ、頂上にはカステロ・ドス・モウロス(Castelo dos Mouros)という城跡が見える。ここも万里の長城のような城壁で、8世紀ごろからムーア人(イベリア半島を制服したイスラム教徒)が建てたことから、イスラムの影響が強く残っているということだ。

白塗りの壁で高さ33メートルの大きな煙突が二つ見えるシントラ・ナショナル・パレス(Palácio nacional de Sintra)は、現在は首相の公式の晩餐会などの場となっているそうだ。中世の臭いが漂う薄暗い木目仕立ての天井や、王の権力を他へ誇示するためにあつらえた黄金張りの天井の謁見の間など見応えがある。8世紀からイスラム教徒が支配して建てていたものを利用したところから、あちらこちらに当時の名残が見られる。チャペルはメッカに向いているそうである。

このシントラの丘を降りると、その先がヨーロッパ最西のロカ岬(Cabo da Roca)、岩の岬だ。観光バスは風が吹き寒いせいか11月以降3月まではこの岬に立ち寄らないということで遠目に見てカメラに収めただけだが、海抜140メートル、断崖絶壁で地球の果てと当時の人たちが感じたのも頷ける。バスは大西洋に面する海岸線を走った。右手には3メートルを越すような大波が夕日をバックに次から次へと打ち寄せ、感動呼んだ。リスボンの旅で最も強く印象に残ったのがこの光景だ。夏にはここでサーフィンの世界大会が開かれるのだそうだ。バスはカシュカイス(Cascais)という漁港のあるリゾート地で一旦休憩。王様が夏の休暇に使っていたところだそうだ。隣にはカジノの町エストリル(Estoril)があるが通過し、一直線にリスボン市街へと向かい40分後には市内へ到着し客をホテルで降ろしていた。

最終日の日曜日、リベルダド通りの南の端の近くのフィギュエイラ広場(Praça da Figueira)が始発の15番の路面電車に乗る。目指すは世界遺産に指定されたジェロニモス修道院(Mosteiro dos Jeronimos)だ。15番線は近代的な2両編成の路面電車で、湾沿いの7月24日通りをかなり速く走る。吉田修一氏は、「7月24日通り」を書いてから、後に現地に行ってみてこの15番線があまりにも高速な電車で情緒が無くイメージしていた様子と違ったと感想を述べていた。確かにアルファマ地区のようなレトロ風の雰囲気は通りにも電車にもない。またこの電車は運転手1人で改札は行わないため、一日乗車券を前もって買っておくか、電車の中の自動販売機で買うしかない。はじめはこのシステムを知らず、乗る前に運転手さんに外から身振り手振りで尋ねると、とりあえず乗れと合図する。乗ってまた不安そうに辺りを眺めていると、今度はおじいさんが慣れた調子で電車の中央にある機械を指差してくれた。

ベレンで下車、修道院手前のサンタ・マリア教会(Igreja de Santa Maria)から入ると、ちょうど日曜日のミサの最中だった。パイプオルガンの音が厳かに響いている。外側が綺麗に磨いてあるのとは裏腹に、中は煤けていて16世紀初期に建てられ500年近くたった風合いがそのまま残っている。この教会入口には、バスコダガマがすばらしいひげをつけた彫像の施された石棺の中で眠っている。

この地区は奇跡的に1755年の大地震の被害を免れ、損傷もなく修道院は貴重な建造物だ。細かく彫刻の施されたアーチが中庭との境に窓のように回廊を飾っている。幅の広く薄暗い階段を上ると、途中大きな錠のかかった分厚い木のドアがいくつかあり、奥からは聖歌が聞こえてきて1500年当時の世界に迷い込んだような錯覚を与える。教会の塔の向こうからは陽が射し、青空と乳白色の石のコントラストが美しい。

そこから大西洋へと流れるテージョ河(Tage)の河口へ急ぐ。まず到着したのが眼前にはだかるパドラオ・ドス・デスコブリミエントス(Pardrão dos Descobrimientos)。大航海に出た当時の船と勇士十数人を表した、高さ数十メートルの記念塔だ。エンリケ航海王子が先頭に立ち、その後方にいるのがバスコダガマだそうだ。建設されたのはエンリケ航海王子没後500年にあたる1960年で、ここから大航海に出たことを記念している。建設当時は1926年から1974年まで続いた独裁政権下で、独裁者が民衆を鼓舞するためにポルトガルの栄誉を象徴するものを築きたかったのかもしれない。比較的最近の建造物だが、青空と対岸とを結ぶ赤い吊橋の4月25日橋をバックに写真が映える。

その次に海岸沿いを15分ほど歩いてたどり着いたのが、世界遺産にも指定されたベレンの塔(Torre de Belém)だ。大航海時代の1500年初期にバスコダガマの功績を讃え、また湾を見張るための要塞として建設された。潮の中に聳える塔はどっしりと湾を見据えている。途中海岸線で見た塔の近くのJa Seiというレストランに入る。さっき見たパドラオの塔が窓越しに見える。結局この日もシーフードのリゾットと白ワインの半ボトルを注文した。

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