特集/コラム

【エリア特集】2007-07-27

ヨーロッパ紀行:ポーランド・クラコフ

天候不順の続くパリだが、7月上旬に夏の日差しが嬉しいポーランドのクラコフを訪れた。パリ・シャルル・ド・ゴール空港では滑走路近くの芝生でピョンピョンと飛ぶウサギに見送られ、クラコフ(Kraków)市の空港では狐の出迎えを受けた。

ヨーロッパ紀行:ポーランド・クラコフ

フランス語ではクラコビ(Cracovie)、英語読みではクラコウ(Kracow)の飛行場は農地の中に立っているようで、ワルシャワ経由で国内線のターミナルに到着すると、とても外国にいるというような緊張感はなく、ローカル線の鉄道の駅のホームのような場所へ降り立つ。そこから地元のバスに乗って田舎道を30分ほど揺られると、いきなり7,8階建ての石造りの建物のある市街に到着する。

クラコフは、ワルシャワに遷都されるまではポーランド王国の首都として11世紀から16世紀末まで隆盛を極め、その後はあまり開発されなかったため、中世の街並みが今だに残っている。おりしも今年はクラコフが市として認められた1257年から数えて750年目に当たり、6月には数々の式典が行われたようだ。その名残か、通りには中世風の旗などが飾られていた。

多くの都市が川を中心に発展してきたが、このクラコフも例外ではない。ヴィスワ(Visla)川の岸に聳える丘の上に城砦の施されたヴァヴェル(Wawel)城が建てられ、11世紀以来何度かの改築を経て、16世紀初期30年近くの年月をかけて現存するスタイルになったという。イタリアから建築家などを呼び寄せフィレンツェのルネッサンス様式を取り入れたこの建物は、その様式の建造物としてはヨーロッパ最大級なのだそうだ。王様の部屋や国政を取り仕切った部屋などには、今もなお中世の香りがするベルギーからとりよせたという数々のタペストリーや、素晴らしい彫刻の施された木製の家具が飾られ、中世の音楽を奏でる楽師も実際にいたりして、当時の雰囲気が味わえる。(ちなみにポーランドは侵略・分割・戦争を経験したが、その間タペストリーなどはパリ、ロンドンなど各地を経由して戦渦を免れたという。)

城内の教会の前ですれ違う茶色のローブに白いロープのようなベルトを纏った数人の僧侶、石畳を走る馬車の蹄の音などが、我々を知らず知らずのうちに中世の世界へと手繰り寄せていく。丘を下りて歩行者天国で賑わうグロツカ(Grodzka)通りに入ると、街角から聞こえてくる笛の音や「四季」のバロックの曲に誘われて行くと、あっという間に旧市街の真ん中に当たる中央広場に出る。ここはマルシェになっており、4ヘクタールあるというからヨーロッパでも最大級だ。中央には大きなアーケードがあり土産物品店が並んでいる。広場の西側に聳え立つ12,3世紀に建造されたゴシック/ バロック様式のクラコフのノートルダム寺院Kośiól Mariackiには、81メートルの塔があり238段の階段を上りつめると展望台に到着する。昔は見張り塔として使われていたそうで、警告を促すためのトランペットの音が時折聞こえてくる。

旧市街は、緑のベルト状の公園に囲まれている。実は皇居のお堀のように楕円を描くように、城砦が城下町を取り囲んでいたのだが、後にその城砦が取り払われその跡地を芝生の公園にした。周囲4キロ、21ヘクタールにわたり旧市街を囲む形になっていて、人々の憩いの場所となっている。従ってわざわざ乗り物に乗って旧市街を散策する必要はない。午前中で周囲を一周してしまうほどだからだ。旧市街の建物のほとんどが石造りの4,5階建ての建物で、街角の大道芸人の姿も手伝って、中世の映画のワンシーンを思いださせる。

十三世紀の石造りの内装をそのままに保っているというカメロット(Camelot)というカフェで休憩をとり、午後はグリーン・ベルトの外にあるユダヤ人街に行くことにした。中央広場とは打って変わって華やかさがない。スピルバーグ監督第二次世界大戦中のホロコーストの時代を描いた映画「シンドラーのリスト」のロケも行われた所だ。実際にシンドラーの工場なども残っているらしい。もう随分長いこと人が住んでいないようなアパートや、黒ずんだ石造りの建物に掘り込まれているダビデの星が遠い昔を物語っているようで心に残る。

この他に、クラコフと聞いて連想されることが二つある。近郊のアウシュビッツと、二年近く前に亡くなられたヨハネ・パウロ2世だ。前者は、クラコフの街の西方75キロのところにあり、空港同様のでこぼこの田舎道をバスに揺られながら1時間半くらいするとたどり着く。アウシュビッツ(Auschwitz)はドイツ語で、現地名はOświęcim。ユネスコの世界遺産となっている強制収容所のあった町として知られているが、7月初旬のクラコフ・ポストによると、ポーランド政府はネーミングの改正を要請していた。「アウシュビッツ強制収容所」という現在の命名ではドイツのナチのものであったことが明確ではなく、時にはポーランドの収容所だったという風に誤って報道されたりしているという政府の申し立てを受け、ユネスコは「アウシュビッツ・ビルケナウ ナチドイツ強制・殺戮収容所」 “Auschwitz-Birkenau, the Nazi German Concentration and Extermination Camp (1940-1945)”と変更することに合意したそうだ。それほど今だにポーランドの人々にとっては許せない過去なのである。ポーランドの民族を破壊することを第一目的として、元ポーランド軍の基地を利用して出来たアウシュビッツの強制収容所は、後にヨーロッパ中のユダヤ人も送り込まれるようになり、近郊のビルケナウにもっと規模の大きな第2のアウシュビッツを建設することになる。どんな運命が待ち受けているか知らずにやって来た人々のおびただしい遺品が展示されており、中には当時の革靴がガラスの向こうに山のように積まれていた。六十余年の間に風化してほとんどの革靴が黒ずんでいる中、赤のサンダルやパンプスだけは当時の色がほぼそのままで残っており、我々の前に生々しく訴えかけてくる。百五十万人とも言われる強制収容者の中で、1945年1月のロシア軍による解放時生き延びていた人の正確な数を伝える証拠はない。ドイツ軍によりすでに破棄されていたようで、7千人のみだったとの数字が非公式に伝えられている。

アウシュビッツIの建物はもともとポーランド軍基地でレンガ造りだったため今でもしっかりしていて、昔は学校だったと言われても信じて疑わないような建物だった。青空の広がる中、小鳥のさえずりを聞いていると、銃殺刑や見せしめのための絞首刑も行われたなどとは思えないようなところで、今も変わらず当時を見届けてきた背の高いポプラの並木を見ると、ロバート・ベニーニ主演・監督の「ライフ・イズ・ビューティフル」のシーンが蘇ってくる。

もうひとつクラコフから連想されるのが、数年前に亡くなったヨハネ・パウロ2世だ。この近郊で育ち、クラコフで勉強し法皇に任命されるまではそこの司教として尽くした方だ。パーキンソン病を患いながら人民に生き抜くことの大切さを伝えてきた法皇の姿が、アウシュビッツに収容された自ら体験を「夜と霧」に著し、生きることの意味を説いたヴィクトール・フランクルの姿と重なる。後者はもともと心理学者で、第2次世界大戦後はウイーン大学の精神科教授として教鞭をとった。1947年戦後間もなくウイーンの市立大学で講演を行ったときの内容を収録したフランクルの「それでも人生にイエスと言う」という本は、生きるということの本質を説いた本だが、旅行後再度手に取った。日本のニュースを見ると自らの命を絶った人や他人の命を奪った人の報道を毎日のように聞くが、生と死について考えるような機会が今の日本の教育には欠けているのではないだろうかと、今回の旅行を通じて再度認識した次第である。(2007.7.24 n.suzuki)

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