編集長ブログ

【時事】2014-12-10

亡き父の人生に学ぶ
日本人の誇りと挑戦の心

私の父親が亡くなったのは、二十九歳の時。意を決して米国に渡ってからたった一週間後のことであった。再生不良性貧血という難病。一年あまりの入院生活だったため主治医の副院長は「お父さんの寿命は明日かもしれないし、一年後かもしれない。それは私にもわからない。行ってくればいい」と躊躇していた私の背中をおしてくれた。

 彼は誇り高い人であった。体質からか、腸閉塞という病気にかかり何度も生死をさまよう大手術をうけていた。確か高校生のころだった。外国航路の機関長だった彼は部屋で倒れていたところ、部下にたまたま発見された。「死ぬなら日本で死にたい」。普通なら搭乗拒否される飛行機に無理やり乗せてもらい、フィリピンから日本の空港まで運ばれてきた。空港には病院の救急車が待機、搬送され緊急手術を受けた。家族は覚悟を決めていたが、このときは一命を取りとめた。副院長は「なんでこんなになるまで黙っていたんだ。相当苦しかったにちがいない」と半ば呆れていた。会社に迷惑はかけられないと思ったのか、辛いそぶりもみせなかったそうだ。

 親父たちの世代は、会社に尽くし、それがひいては日本、家族のためになると信じ必死で働いてきた人たちだ。日本人としての誇りをもつ世代でもあった。特攻隊の志願者であったが、年少で身長が足らなかったため検査で落とされた。翌年ぐらいに急に身長が伸び、あと一年早ければと悔いていた。名もない市井の人物だが、こんな人たちの魂がこの国の根幹を支えてきたのだろう。
 日本から訃報の電話を受け取った私は、呆然とした。日本を出たら、親父は死ぬのではないか、という漠然とした予感はあった。ただ、こんなに早いとは思わなかった。

 結局、葬式にも帰らなかった。当時高校生だった妹が「お兄ちゃんが帰ってきてもどうしようもない。そのままいればいい」と言ってくれた。渡米してたった一週間。右も左も分からないまま帰国すれば、戻ってこられないという意識があった。そのまま初志を貫いた方が親父も喜んでくれるのではないか。葬式に出ることだけが、親孝行ではあるまい。そう自分に言い聞かせていた。

 父親は、当然のことながらいまだに私のこころに存在する。三十でお手本となる人物を亡くした私は、いま親父に聞きたいことがやまほどある。この国はどうしてしまったのだろうか。誇り高き日本は、どこへいってしまったのか。

 かつては、キャリアの官僚、政治家は、この国を引っ張っていくのは私たちだとの強い自負があった。いまさらマスコミをにぎわすスキャンダルを持ち出そうとも思わない。ただ、全ての事件がこの国の行く末にはまったく関係ない私欲がらみのことだ。物質的に貧しい日本はもはや存在しないが、反面、日本人としてのスピリチュアルな部分がどんどんなくなってきているのではなかろうか。

 教育、行政、政治。いろんなところで金属疲労が目につくようになった。それは、次の成長に向けて踊り場で停滞しているように私は、思うのだが、現実に目を向けない弥縫策では次のステージはないだろう。日々易きに流れようという気持ちと葛藤しながら、喘いでいる。子どもも高校生になり、次世代に何かを伝えていく年になった。それは、決して物質的なものではなく日本人としての誇りと無一物からでも何かに挑戦していく姿勢ではなかろうか。

(同社説は、十年前の二〇〇四年六月号に掲載。その内容は、月刊原宿新聞の原点ともいえるもの。震災後三年ぶりの復刊にあたり原文のまま再掲載しました)

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